国造〜律令制
守護領国制
幕藩体制
市町村合併史
資料提供:
千葉県立
安房博物館
行政史
主な古墳と官衙
国造〜律令制

・主な古墳と官衙
 南房総は、古代律令制下では、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡の4郡が置かれていましたが、これらは、国造制によるそれぞれの豪族の支配領域が律令制に移行したものと考えられています。
 よって、それぞれの豪族の支配の拠点である居館と奥津城ともいう古墳群が想定されるわけです。
 現在のところ、古墳時代前期に遡る前方後円墳は安房地域では見つかっておりません。 前期の方墳が鴨川市の根方上ノ芝条里跡から見つかっており、愛知県や滋賀県といった東海・近江からの土器が出土しています。
 古墳時代中期になると安房地域にも本格的な古墳文化が展開されます。 まず、前方後円墳でしかも埴輪を持った古墳が2か所で確認されています。 富山の恩田原古墳と丸山の永野台古墳です。これらはそれぞれ平群郡、朝夷郡の領域となった地域に所在しています。
 安房郡の領域では、この時期特徴的な埋葬方法が確認されています。 館山市大寺山洞穴では、丸木舟を棺に使った舟葬がみられ、副葬品には短甲、直刀、盾、玉類、土器といった古墳の副葬品と遜色のないものが出土していることから古墳の被葬者に匹敵する人物の墓だと云うことが推定できます。
 また、館山市峯古墳からは、非常に珍しいトンボ玉といった特殊なガラス玉が出土していることが注目されます。グレーの地に赤と青で放射状の模様が象眼され、朝鮮半島経由で西域からもたらされたものと考えられます。
 古墳時代後期になると長挟郡の領域である鴨川市広場古墳群中の円墳から砂岩製の刳抜式舟形石棺が発見されています。刳抜式舟形石棺は、千葉県では唯一、鴨川から発見されています。 長挟国造の系譜の首長墓である可能性が高いと思われます。
 館山市の翁作古墳からは環頭飾大刀が出土しています。 平砂浦海岸を望む場所に造営された海との関連の深い首長墓であると思われます。
 こうした古墳時代の豪族、国造の支配領域が律令国家の郡へと編入されていきます。
 安房国は、養老2年 (718年) 5月2日、上総国の平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて成立しています。しかし、天平13年 (741年) 12月10日に上総国に戻されますが、天平宝字元年 (757年) に再び安房国となりました。
 645年に蘇我入鹿が暗殺され、翌年の正月「改新の詔」が出たとされている、いわゆる「大化改新」がありました。改新の詔の第2条「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河」には、「郡」という字が使われていますが、「評」という用例もあることから、この詔は実際には出されていないのではないかという意見が、かねてからありました。これを「郡評論争」と言いますが、藤原京から発掘された木簡には、まだ郡を意味する文字として、「評」が使われていました。 このため、改新の詔は後世の創作を含んでいるという評価が下されたわけです。
 この「郡評論争」に決着をつけた記念碑的木簡が、藤原京から発掘された木簡(藤原宮跡北面外濠出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)「己亥年十月上挾国阿波評松里(つちのといのとしじゅうがつかずさのくにあわのこおりまつのさと)」という、安房地域から都に運ばれた荷札木簡でした。己亥年は、699年(文武3年)にあたりますので、701年の大宝律令施行以前は、国−評−里といっていたことが明らかになり、「改新の詔」が収められている『日本書紀』の記述が701年以後の書式で書かれていることが明らかとなりました。
 ちなみに、715年(霊亀元年)に敷かれた郷里制(ごうりせい)では、それまでの里を郷(ごう)と改称していますので、国−郡−郷−里といった行政区分になりました。
 平城宮出土の木簡には、安房、上総の国名の推移を示す次のような資料があります。
「安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月」(722年)
「上総朝夷郡健田郷戸主額田部小君戸口矢作部林調鰒六斤○/卅四条/○天平十七年十月」(745年)

 ここまでの古代安房地域の国名の推移は、以下のとおりです。
 
養老2年 (718年)5月1日以前 上総国
養老2年 (718年)5月2日〜天平13年 (741年)12月9日 安房国
天平13年 (741年)12月10日〜天平宝字元年 (757年)5月7日 上総国
天平宝字元年 (757年)5月8日以降 安房国

 安房国には、安房郡・朝夷郡、平群郡、長挟郡が置かれていたのですが、それぞれの国府、郡衙といった役所の所在地はどこだったのでしょうか。
 安房国府については、和名抄には平群郡にあると記載され、これまで三芳村府中に推定されてきました。しかし、これまで、発掘調査成果をはじめ、確定的な証拠は見つかっていません。安房国分寺は、館山市国分で昭和51〜53年の発掘調査によって、金堂跡と考えられる基壇が確認され、布目瓦や三彩の獣脚などが出土したことから、安房郡域に所在したことが確定しています。安房国分尼寺は、今のところ所在地不明です。さて、安房国府はどこにあったのでしょうか。
 安房郡衙をはじめ、4郡の郡衙は、今のところ確定しているものはありません。しかし、発掘調査成果で可能性が指摘できるものがあります。
 館山市東田遺跡では、大型の総柱式の掘建柱建物跡が発見されており、しかも基壇建物へ建替えをしている様子があることから郡衙の租税としての稲を保管する施設である、正倉の可能性があります。東田遺跡は、館山市上真倉の汐入川南岸の段丘上に立地します。南総文化ホールから白浜方面へ抜ける国道410号バイパスの工事に先だって行われた発掘調査で発見されたもので、ちょうど白浜方面から丘陵部を通ってきた道が館山平野に出たところに位置します。周辺の調査次第では、安房郡衙が発見できるかもしれません。
 鴨川市根方上ノ芝条里跡では、奈良時代の掘建柱建物跡のみで構成される集落があります。郡衙としては、規模が小さく決め手は欠くのですが、郷クラスの役所である可能性もあり、官衙的色彩の濃い遺跡だと認識されています。
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