南房総富浦総合ガイド資料集

寺社を巡る 原岡・青木地区

【興禅寺(原岡)】

海恵山興禅寺(かいけいざんこうぜんじ)という臨済宗円覚寺派の寺。里見義弘の正室である智光院殿が開基とされています。この女性は里見義堯の主君であった小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、鎌倉の太平寺の住職になった青岳尼(しょうがくに)のことです。
彼女は還俗(げんぞく)して鎌倉から帰り、義弘の室になりました。境内には江戸時代の延宝3年(1675年)に建てられた青岳尼の百回忌の供養塔があり、また門前には青岳尼に従っていた家臣たちの家があります。
里見義康・忠義から、原村で56石5升の寺領をもらっていました。
◇興禅寺の勅額
金泥入りの文字で「普済」と彫られた額が、原の興禅寺の本堂に掛かっています。ちょっと見ただけでは取り立てて言うべきこともない、ただの古い額と思われがちですが、実はこの額は、後小松天皇の勅額ですから、どこにでもあるというものではないのです。
この額は、今から六百年余りも前の永徳三年(1383)九月に、後小松天皇が、禅僧・夢窓国師の生前の功に報いるため、鎌倉(神奈川県)の瑞泉寺へ下賜したものです。普済とは、夢窓国師に与えた贈り名で、「広く人びとを救う」という意味をもっています。
興禅寺は、貞和元年(1345)に夢窓国師が創立されたお寺で、房総に威を振るった戦国大名・里見義弘の奥方、青岳尼の菩提寺でもありました。しかし長い間には、荒廃したこともあったようです。無外磧珍というお坊さんが享保元年(1716)に復興したといわれますが、そのとき、同門の瑞泉寺から、お祝いとして普済の額が贈られてきたのです。
文化財としても価値のある額ですから、遠く後世まで残しておきたいものです。

【光厳寺(青木)】

金竜山光厳寺(きんりゅうざんこうごんじ)という曹洞宗のお寺です。延命寺の六世白峯禅師を招いて、里見義頼の菩提を弔うために建立されました。
天正15年(1587年)に没した義頼の墓(宝筐印塔・ほうきょういんとう)があり、かつては肖像画もありました。大勢院は義頼の法号です。大勢院は、はじめ光厳寺の塔頭として存在していて、慶長3年(1598年)に屋敷地として、2石4斗余りが青木村の光厳寺門前で寄進されました。
光厳寺の寺領は、義康・忠義から、原村で22石、青木村で38石が寄進されていました。
※宝筐印塔:より上位の祖霊(百年忌以上のご先祖様)をお祀りする、格式の高い供養塔です。
◇光厳寺の韋駄天
速く走るのを「韋駄天走り」と言いますが、韋駄天とは古代インドの神の名です。始めはバラモン教の神でしたが、後に仏法の守護神となった神で、速く走る力を無限に持っておられます。仏教説によりますと、寺院の伽藍に災難が降り懸かろうとすれば、それを守るため、三千世界の中心地にそびえる須弥山から、たちまち駆け付けてくるといいます。禅宗のお寺では、みんなその韋駄天を伽藍の守護神としているところから、青木の光厳寺(里見義頼公廟所)にも昔からお祀りされています。もちろん光厳寺の韋駄天も霊験あらたかで、お寺を火災から守ったり、集落の小児の病魔を除かれるそうです。
光厳寺の韋駄天像は、中国風の武将姿の石像です。お姿は凛凛しく、しかも気品があり、文化財としての価値も高いものです。『金龍山再興記』(光厳寺蔵書)から、寛政7年(1795)に刻まれたことが分かります。銘が刻まれておりませんので作者については定かではありませんが、光厳寺の住職さんの話によりますと、鋸山日本寺(鋸南町)の五百羅漢を刻んだ石工・大野甚五郎ではないかとの事です。作風が似ていますので本当かも知れません。

【長泉寺(原岡)】

深広山長泉寺(しんこうさんちょうせんじ)という浄土宗のお寺です。毎年1月6日には、里見氏から寄進されたと伝えられる里見大黒の開帳がおこなわれています。また、大黒天像の朱印を捺した里見家からの書状も所蔵しています。これは、元亀4年(1573年)に里見家の奥方が出したもので、里見家の奥向きで、乳母をしていた女性が、奥を下がるのにあたって、深名村で土地を与えられ、長泉寺の世話になるように勧められたものです。
里見義康・忠義からは、原村で長泉寺の屋敷地として1石9斗2合が寄進され、また、乳母が与えられた土地も長泉寺領となり、深名村で3石が寄進されました。
◇幽霊の絵
この世に幽霊なぞいる訳がないと思っていても、怪異な姿を描いた幽霊の絵を見ますと思わずぞっとするものです。
公開されていませんので見た人は少ない筈ですが、原岡の長泉寺に恐ろしい幽霊の絵の掛軸があります。何時も桐の箱に納められていますが、墨絵の幽霊で鬼火などに少し朱が加えてあります。画風や幽霊に足が描いてあるところから、江戸中期の画家、円山応挙の絵ではないかと思われるのですが、もし、そうだとすれば、たいへんな価値を持ちます。
長泉寺にどうしてそんな恐ろしい幽霊の絵があるのか言いますと、絵は、もともと館山市川名の某家が所蔵するものだったのですが、あるとき家主が、不幸が長く続くのはなぜかと思い、祈祷して貰いますと、恐ろしい霊魂が宿った幽霊の絵を持っているからだと言われたため、昭和40年(1956)8月に原岡の渡辺長十郎家を通して、長泉寺に寄進したのです。
長泉寺の本尊・阿弥陀如来の霊力により、川名の某家を苦しめた霊魂は消え去りましたが、一度でもその掛軸を開いて見た人は、鬼気迫る幽霊の絵姿を一生忘れることができなくなります。

【西方寺】

金銀瑠璃地山西方寺(こんごんるりじざんさいほうじ)という浄土宗のお寺です。
境内には、紀州・友ケ嶋の淡嶋大明神の分霊をお祀りした淡嶋堂が建立されています。祭神が女性の守護神であることから、安産子育ての神様として昔より崇拝されています。昔は、母乳の出がよくなるように絵馬を奉納しました。
原岡の地に、淡嶋大明神がお祀りされたのは、幕府が江戸の台所をうるおすために、紀州から房州へ漁民を移住させましたが、その人々が熱心な淡嶋信者だったことによります。
また、境内には明治の初めに大相撲で活躍し、関脇まで登った武蔵潟伊之助(むさしがたいのすけ)の墓もあります。
◇武蔵潟伊之助
明治の初め、相模生まれで武蔵潟伊之助という、関脇まで登った力士がいました。その武蔵潟が力士をやめた後、富浦の人情と風土を愛して原岡の原田丈之助さんの家に住んでいましたが、興禅寺の山門を、体を折り曲げてやっとくぐったほどの大男だったため、人並み外れた話を残しています。
武蔵潟は釣り好きで、よく岡本川に膝までつかりハゼなどを釣っていました。誰かが近づきますと、
「ここが釣れるから、こいこい」
と呼びますが、普通の人には腹の深さでとても行けませんでした。
またあるときは豆腐を買いに来て、
「代金はここに置いたよ」
と言って帰りましたので、豆腐屋がお金を探しますと、はしごを掛けねば取れぬ屋根のひさしに置いてありました。
武蔵潟は力もめっぽう強く、屋根替えの手伝いのときなど瓦を一度に数十枚も持ち上げ、受け取る左官屋を閉口させました。また火事が起きたときは、四斗樽で水を運び火にぶっかけて消したとか、ほかにもたくさん話があります。
大きな体と強い力で、皆を驚かせたり呆れさせたりの人気者でしたが、四十九歳で亡くなりました。
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伝説の相撲取り・武蔵潟伊之助の墓