幕藩体制
発掘された近世大名の陣屋 西郷氏館跡
慶長19年(1614)9月以降、里見氏がいなくなった後の安房は、館山城の受け取りにきた佐貫城主の内藤政長が管理しましたが、幕府は、代官の中村弥右衛門尉吉繁とその補佐をした手代の熊沢水三郎左衛門忠勝が、元和4年(1618)に安房国内全域の検地をやり直し、耕地の生産力が把握されると、幕府の支配から徐々に旗本や小大名に村々が配分され引き渡されていきました。
その端緒は、元和6年(1620)で、西郷正員に長狭郡・朝夷郡で一万石が与えられました。西郷正員は下総国生実(千葉市)で五千石を知行し、慶長19年の館山城請け取りにもかかわった旗本でしたが、このとき東条村(鴨川市)に陣屋を設けて東条藩とし、ここで大名になったわけです。東条藩は元禄5年(1692)に信州上田(長野県上田市)へ移るまで安房での支配を続けました。これ以降寛永年間にかけて、五千石を越える大身の旗本を中心に所領が分け与えられていきました。
鴨川市には、西郷氏館跡と呼ばれる遺跡があり、東条藩の陣屋の推定地とされていました。
平成7年(1995)に発掘調査が行われ、堀で囲まれた郭が確認され、陶磁器などが多量に出土しました。陶磁器類は、17世紀代の年代観を示すもので東条藩の陣屋が存在した時期に合致し、東条藩の陣屋跡とみて、間違いないと思われます。しかし、不思議と16世紀代の陶磁器は出土していません。また、中国産の赤絵染付磁器といった当時の最新の器が含まれることから、どうも西郷氏は大名昇格にあたり、東条藩の陣屋に来る際に調度品を一新したような状況が出土遺物から想像されます。