枇杷(びわ)の歴史

びわ

初夏の代表果物くだものとして、富浦とみうらのびわは多くの人に親しまれ、全国的にも高い人気を得ています。
南房総市みなみぼうそうし富浦とみうら地域ちいきを中心に日本でも一、二を争う枇杷びわの産地です。

栽培さいばいの歴史も古く約260年前から生産され、品種改良、技術ぎじゅつの向上を重ねて今日きょうまできました。大粒おおつぶでみずみずしくかおたかいことから、毎年厳選げんせんされたびわが、皇室こうしつ献上けんじょうされています。

富浦とみうらのビワ生産のはじまり

約260年前ごろからです。 ビワの生産地としては北限ほくげんに近く寒害を受けやすく生産は大変ですが、富浦とみうらの先人たちの苦労と工夫くふうによって、日本一のビワの町になりました。

迷信めいしん栽培さいばいする人がえない

ビワの木には「ビワをつくるとその人はわかくして死んでしまう」などの迷信めいしんがあり、ビワを作る人は中々えませんでした。

富浦とみうらで作られる理由

  1. 東京に近いから 
     東京(江戸えど)は多くの商品が売り買いされています。ビワも東京へ運べば多くの利益りえき(りえき)が出ます。ビワはきずつきやすいので、東京から近い富浦とみうらは有利だったのです。
  2. 平地が少ない 
    富浦とみうらは平地が少なく、特にこれといった作物を作れる状況じょうきょうではありませんでした。
  3. 全国的に有利 
    ほかの地域ちいきではあまり生産しておらず、品種や出荷しゅっか時期などがちがったため、全国的にも有利に生産できました。

さかんになった理由

  1. 栽培さいばい方法の改良 
    ビワの木を元気よく育て、大きいビワの品種を導入どうにゅうし、おいしいビワを作る技術ぎじゅつを取り入れてきました。
  2. 輸送ゆそう方法の改良 
    早い船を使うなどして、東京(江戸えど)まで早く新せんなビワをとどけることができるようになりました。
  3. 品種改良 
    「田中」などの良い品種を導入どうにゅうすることによって、大きくて形が良くおいしいビワを作れるようになりました。

献上けんじょうビワ」が始まります

天皇てんのう皇后こうごう陛下へいかおよ皇族こうぞくの方々などにビワをおおくりする行事がビワの献上けんじょうです。富浦とみうらでビワ生産がさかんになり、おいしいビワが作れるようになったため、「献上けんじょうビワ」が始まりました。明治42年6月20日のことでした。富浦とみうらのビワがすぐれていることの証明しょうめいでもあります。右の写真は昭和16年6月10日のものです。

苦労と工夫くふう

ふくろかけで品質ひんしつが良くなる

それまで、ビワにはふくろをかけていませんでした。しかし、大正4年にふくろかけが始まりました。雪、風、雨、太陽の強い光などの害を予防よぼうし、虫もつきにくいので、ビワの品質ひんしつが良くなりました。

化粧けしょう箱(けしょうばこ)

ビワはたるなどで東京まで運んでいましたが、大正9年から化粧けしょう箱(けしょうばこ)が使われ始めました。この箱によって出荷しゅっかが便利になりました。

ビワを大きく育てる

長崎県ながさきけんのビワは、東京市場でも人気でした。そこで、富浦とみうらの人たちはビワを大きく育て、おくり物用にもできるように工夫くふうしました。また、出荷しゅっかする時期がちがうため、おたがいに競合(きょうごう)することがさけられたのです。

人手不足

ビワ生産のために多くの人が働いていましたが、昭和40年代からは人手不足になってきました。そこでケーブル、草刈機くさかりき、モノレールを使いはじめました。また、道路をよくすることでトラックなどが使えるようになりました。

ハウスビワ

平地でもビワ生産ができると、作業が楽になります。また、ハウスで栽培さいばいすることで寒害などにもあわないのでビワがだめになってしまうことが無いのです。さらに、早い時期に出荷しゅっかすると、高く売れるので農家は助かります。現在げんざいはハウスビワがだんだんとさかんになってきています。しかし、ハウスの中が熱くなりすぎるとビワがだめになってしまうので気をつけなくてはいけません。