捕鯨の歴史

南房総みなみぼうそうでは、現在げんざいでも捕鯨ほげいを行っていることを御存知ごぞんじでしょうか。
大型のくじら国際こくさい捕鯨ほげい委員会(IWC)によって1988年(昭和63年)から捕獲ほかく停止となっていますが、小型の鯨類げいるいについては日本政府せいふ独自どくじに管理し、毎年、捕獲枠ほかくわく設定せっていし、くじらつかまえています。
現在げんざい、日本で小型捕鯨ほげいの対象になっているのは、ツチクジラ、マゴンドウ、タッパナガ、ハナゴンドウの4種類です。

では、沿岸えんがん捕鯨ほげいの歴史をみてみましょう。

くじらについて

一、領分りょうぶんの船、くじらめ候上、壱ひきの内より、初ため一尺八寸いかまつきの皮壱まいさながらとらるべく候事。
  …中略ちゅうりゃく
     慶長けいちょう拾七 弐月七日  忠義ちゅうぎ はん
                 榎倉えくら長兵衛ちょうべえ殿どの

 これは、鋸南町きょなんまち醍醐だいご家に伝えられた古文書の一節で、里見忠義さとみただよし御師おし榎倉えくら氏を通じて伊勢神宮いせじんぐうくじらの皮を献上けんじょうしていることがわかり、房総ぼうそう沿岸えんがん捕鯨ほげい存在そんざいしめす最も古い記録です。しかし、最近では、出土する擬餌ぎじはり材質ざいしつが、鎌倉時代かまくらじだい13世紀ごろさかいくじらほねが多く使われていること、また、鎌倉時代かまくらじだい日蓮にちれん書状しょじょうに見られる「房総ぼうそうのネズミイルカ(くじらの様な大型海獣かいじゅうと思われます。)という大魚の肉から、鎌倉かまくらでは油をしぼっている」という記述きじゅつ、さらに鎌倉かまくら市内の遺跡いせきから出土する多くの鯨骨げいこつ存在そんざいなどから、鎌倉時代かまくらじだい後半の13世紀ごろから室町時代むろまちじだい14・15世紀ごろまでには、房総ぼうそう沿岸えんがん捕鯨ほげいが始められていた可能性かのうせいが考えられています。そして、ツチクジラを捕獲ほかく対象とした房総ぼうそう沿岸えんがん捕鯨ほげいは、江戸時代えどじだい鋸南町きょなんまち勝山の醍醐だいご家により組織そしき化され大きく発展はってんしました。

 醍醐だいご組ではくじらにモリをむ「き組」は、元締もとじめの下に世襲せしゅうせいで57そう組織そしきされており、全体の組織そしきは、「旗頭はたがしら」「世話人」といった幹部かんぶを中心に、「羽とげ」とばれるモリ打ちなどの海上要員が約500人、陸上でくじら解体かいたいや加工を行う「出刃でば組」「かま前人足」が約70人という規模きぼとなっていました。くじら漁の漁期は、6~8月で、江戸えど(東京)わん一帯を漁場としていました。
 き組が使用していたモリが「アガシモリ」で、形は「きんぼう漁」で使われるつばめはなれもりとほぼ同じです。このことから、きんぼう漁は、くじら漁から発展はってんしたとも考えられています。

 房総ぼうそう捕鯨ほげい特徴とくちょうは、モリでいてくじらる「き取り法」を採用さいようしたことです。各地で「網取あみとり法」が主流になってもツチクジラが深くまでもぐるため網取あみとり法がてきさなかったので一貫いっかんして「き取り法」で行いました。
 明治20年代前後には、関澤せきざわ明清や醍醐だいご徳太郎とくたろうたちの努力で、捕鯨砲ほげいほうによる洋式捕鯨ほげい導入どうにゅう、明治31年には遠洋漁業株式かぶしき会社が設立せつりつされ、操業そうぎょう規模きぼ拡大かくだいします。しかし、明治42年にくじら取締とりしまり規則きそく制定せいていされ、漁獲ぎょかく高等に制限せいげんが加えられると、沿岸えんがん捕鯨ほげいを中心に活動が行われることになり、東海漁業株式かぶしき会社(明治39年、房総ぼうそう遠洋漁業株式かぶしき会社を改称かいしょう)の拠点きょてんがあった館山たてやまきゅう白浜町しらはまちょう乙浜おとはま、そのほかきゅう千倉町七浦ななうらが、房総ぼうそうにおける沿岸えんがん捕鯨ほげい拠点きょてん基地きちとなりました。

 その後、房総ぼうそう沿岸えんがん捕鯨ほげい伝統でんとうは、昭和23年、きゅう和田町和田浦わだうら設立せつりつされた外房そとぼう捕鯨ほげい株式かぶしき会社にがれています。

ツチクジラ ~プロフィール~

生息地: 北太平洋
分布ぶんぷ地: 太平洋側では本州三浦みうら半島および大島 (東京都) 周辺から 北海道東岸おき、北海道沿岸えんがんのオホーツク海および日本海
種類:くじら
大きさ:おすで11.9m、 めすで12.8m、体重12トンに達します。
食糧しょくりょう:深海せいイカ類や底生魚類を食べています。

南房総みなみぼうそう くじら年表

縄文時代じょうもんじだい千葉県のいくつかの貝塚かいづかに、縄文時代じょうもんじだいのイルカのほねが残されている。
姥山うばやま貝塚かいづか公園 (市川市)/月ノ木貝塚かいづか・東寺山貝塚かいづか ・ 千葉県立中央博物館・千 葉市立加曾利かそり貝塚かいづか博物館(千葉市)
1500年代後半千葉県勝山付近で、モリやヤリを使った 「り式捕鯨ほげい」が行われていたと 推測すいそくされる。 おもに小型のクジラをっていたが、捕鯨ほげいしやすいセミクジラ・コク クジラなど、大型のクジラもっていたかもしれない。
1600年代江戸時代えどじだい初期、紀州の大地で「つなり式捕鯨ほげい」が行われていたが、勝山では 深くもぐる習性しゅうせいのあるツチクジラをるために 「り式捕鯨ほげい」 が続けれらた。
1612年慶長けいちょう17年に、 安房あわ国の領主りょうしゅ里美さとみ忠義ただよしが、 初漁時、 伊勢神宮いせじんぐうにクジラのあぶら皮を 献上けんじょうしていたという記録が残されている。
1655年安房あわ勝山では、初代醍醐新兵衛だいごしんべえ(定明)が元締もとじめとなって、統制とうせいのとれた経営けいえい 「組織そしきくじら組」がつくられた。
1704年二代醍醐新兵衛だいごしんべえ (明廣あけひろ) はさらに組織そしき化した 「つき組」 をつくり、 3組57せきの船と、 総勢そうぜい500~600人をかかえる規模きぼとなった。
1820年
~1865年 
日本近海はジャパングランドとばれるクジラの好漁場のため、外国の捕鯨船ほげいせん ~1865年が集まり、 「アメリカ式捕鯨ほげい」 で太平洋のクジラを捕鯨ほげいした。 そのため日本近海 のクジラが急減きゅうげんし、 日本の古式捕鯨ほげい衰退すいたいする。
1899年ノルウェーの捕鯨ほげい技術ぎじゅつを学んだおか十郎じゅうろうがノルウェー式捕鯨ほげいを行う 「日本遠洋 漁業」を設立せつりつする。 122トンの捕鯨船ほげいせん 「長州丸」を建造けんぞうし、ノルウェー人の砲手ほうしゅ をやとれるなどの努力をかさね、 捕鯨ほげいの近代化に成功する。 この会社が後の 「東洋捕鯨ほげい」 になる。
1908年日露にちろ戦争後、近代化された装備そうび捕鯨ほげい会社が乱立らんりつし、 「東洋捕鯨ほげい」は大手4社 で合併がっぺい。 「東海漁業」 は捕鯨船ほげいせんなどを 「東洋捕鯨ほげい」 に売却ばいきゃくし、 遠洋捕鯨ほげいから撤退てったい する。 また 「東洋捕鯨ほげい」 もクジラの減少げんしょうにより、一度は進出した銚子ちょうしからの撤退てったい を余儀よぎなくされる。
1909年遠洋捕鯨ほげいから撤退てったいした 「東海漁業」は捕鯨ほげい規制きせい枠外わくがいのツチクジラなどをる 小型沿岸えんがん捕鯨ほげいの業者として、 基地きち館山たてやまから白浜しらはまうつす。 さらに千倉の捕鯨ほげい 業者を吸収きゅうしゅうし、千葉県の捕鯨ほげい基地きち白浜しらはまだけとなる。
1948年「東海漁業」 定置網ていちあみ漁をしていた庄司しょうじ政吉まさきち捕鯨船ほげいせんの一部をゆずることになる。 同時に捕鯨ほげい管轄かんかつけんが県から政府せいふにうつり、捕鯨ほげい許可きょかわくえたため和田町に 「外房そとぼう捕鯨ほげい」が設立せつりつされた。
1950年最盛期さいせいきには、房総ぼうそうの 「東海漁業」と「外房そとぼう捕鯨ほげい」とで、 1年間に130頭を捕鯨ほげいす ることもあった。
1987年国際こくさい捕鯨ほげい取締とりしまり条約じょうやくにもとづき、 小型沿岸えんがん捕鯨ほげいの対象であったミンククジラが 捕鯨ほげい一時中止となる。 「外房そとぼう捕鯨ほげい」はツチクジラ・ゴンドウクジラ漁を継続けいぞくし、げん みつるいたる。
1988年長崎県ながさきけん五島列島から千葉県和田を中心に、 大型クジラを捕鯨ほげいしていた 「日東 「捕鯨ほげい」が捕鯨ほげい一時中止で和田町から撤退てったいする。
1996年和田浦くじら食文化研究会発足
2007年和田浦くじら食文化研究会おかみさんの会発足
2011年和田浦くじら食文化研究会おかみさんの会が、 「フード・アクション・ニッポンア
ワード2011」「コミュニケーション・啓発部門」にて「最優秀賞」を受賞
2013年全国鯨フォーラム2013南房総開催

房州ぼうしゅう捕鯨ほげい

房州ぼうしゅうでは、古くからりによって捕獲ほかくされてきました。ツチクジラの捕鯨ほげい は、我慢がまんの漁です。 潜水せんすい時間が平均へいきん30分です。 浮上ふじょうたびれに近づい ていきます。一度そんじるとそのれは逸散いっさんし漁になりません。 まさに必殺 必中で仕留しとめなければならないわけです。丸1日かけても捕獲ほかくにならないこと もあります。ツチクジラはで打たれると、ほとんど垂直すいちょくに急速に潜水せんすいします。 そのいきおいはすさまじいものです。 りで仕留しとめられた時代の苦労は常人じょうじん には計り知れないものがうかがえます。 あくまでも推測すいそくいきをこえないのですが、 江戸時代えどじだいの漁具の発達で目を見張みはるのは綿糸めんしの利用があげられます。 これ による漁具の強度と耐久たいきゅう度は飛躍的ひやくてきびました。 ツチクジラの捕獲ほかく のうにしたことが考えられます。 江戸時代えどじだい綿花めんかの主産地は関西でしたが、ぼう 州は綿花めんか栽培さいばい不可欠ふかけつ干鰯ほしかの生産地でした。 海の資源しげん肥料ひりょうとして田 畑に施肥せひされ、綿花めんかから製造せいぞうされた良質りょうしつな漁具が製造せいぞうされ、それが漁業者 に供給きょうきゅうされる。そんな循環じゅんかんがあった様です。 なお、 ツチくじら鯨油げいゆは害虫退治たいじ の農薬として使用されることが多く、内臓ないぞうほね肥料ひりょうとして利用され、それは 富浦とみうら岩井いわい房州ぼうしゅう枇杷びわ褒美ほうびこえ(ほうびごえ)として施肥せひされてきました。

和田漁港でのツチクジラの解体かいたい

沿岸えんがん捕鯨ほげいの道具

アガシモリ

アガシモリ

 江戸時代えどじだい沿岸えんがん捕鯨ほげいで使われていたモリです。全長4mほどのカシせい竿さお先端せんたんに、アガシモリを1つ装着そうちゃくし、モリには16m程度ていど麻縄あさなわったなわ(アガシなわ)が付けられていました。くじらにモリがとげささるとモリ竿ざおは外れ、アガシなわを引くと、アガシモリが体内で回転し、くじらからモリがけなくなるように工夫くふうされています。

テナゲモリ

テナゲモリ

 ツチクジラに手でむモリです。全長2.3~2.4m、鉄製てっせいのモリ先にケヤキやカシせい銅線どうせんで固定されています。モリの先端せんたんは、回転できるように作られており、形は火薬を爆発ばくはつさせてモリを打ち出す「ボムランス」のものに類似るいじします。関澤せきざわ明清の弟・鏑木かぶらぎあまり三男が明治31年(1898)に設立せつりつした「房総ぼうそう遠洋漁業株式かぶしき会社」で使用されたものです。

コロシモリ

コロシモリ

 モリをまれ弱っているくじら心臓しんぞうに、このモリをし完全に仕留しとめるために使われました。全長2~3.3mで、マツ・カシ・ケヤキなどのするど鉄製てっせいのモリ先が、びょう銅線どうせんで固定されています。明治時代後半に、房総ぼうそう遠洋漁業株式かぶしき会社で使用されていたものです。

グリーナーほう

グリーナーほう

 ボムランスを使用するアメリカ式捕鯨ほげい銃殺じゅうさつ捕鯨ほげい)の後に導入どうにゅうされたほうころし捕鯨ほげいで使用された捕鯨砲ほげいほうです。アメリカ式捕鯨ほげいは、手漕てこぎのボートでくじらに近づき至近しきん距離きょりから捕鯨ほげいじゅう・ボムランスでモリをむのに対し、ノルウェー式捕鯨ほげいに代表されるほうころし捕鯨ほげいは、動力船の舳先へさきけた捕鯨砲ほげいほうくじらにモリをむものです。グリーナーほうは、イギリスのグリーナーにより開発された捕鯨砲ほげいほうで、この資料しりょうは、明治時代後期に東京で製作せいさくされたものです。モリの射程しゃてい距離きょりは27m、明治39年以降いこう房総ぼうそう遠洋漁業株式かぶしき会社の後身うしろみ・東海漁業株式かぶしき会社で使用されたものです。

平頭モリ

平頭モリ

 ノルウェー式捕鯨砲ほげいほう用のモリは、戦前に使用されたモリ先がとがったタイプから戦後、昭和20年代後半にモリ先が平らな平頭モリに改良されました。一見、とがっている方がさりやすいと思われますが、水面ではねてしまい、平たい方がまっすぐ、水中に入り、命中りつ格段かくだんに上がりました。

クジラの活用

江戸時代えどじだいころは肉の利用よりもあぶらに利用価値かちがありました。 当時稲作いなさく大敵たいてき であるウンカの駆除くじょに多く用いられました。 その油膜ゆまくは水田の保温ほおん保湿ほしつ効果こうか があり、休耕きゅうこう期には土地改良ざいにも利用されました。 肉はむしろ副産物として地 元で利用されました。 長期保存ほぞん知恵ちえとしてツチクジラのたれ (じし)ができた と考えられます。たれという製法せいほう房州ぼうしゅう独自どくじのものと考えられます。 それは、ツチ クジラの肉質にくしつ房州ぼうしゅうの気候がはぐくんだものだと考えられます。 明治に入ると、こえ 料として用いられたあぶらは工業製品せいひん原料として用いられるようになりました。戦後 では石油化学工業の隆盛りゅうせいにより、鯨油げいゆより肉に価値かちうつっていきます。 たれの ほかにもえせい大和煮やまとにが名産品として名を連ね、ツチクジラのあばら肉の佃煮つくだには 大和煮やまとにとは一味ちがう味わいがあります。 和田浦わだうらでは肉を熟成じゅくせいさせて食用にもち いるために、捕獲ほかくしたツチクジラを港に一ばんかせておき、加工されていきます。

食文化

南房総みなみぼうそうれた鯨肉げいにくは、地元(南 房総ぼうそう市内や館山たてやま市内)でほとんどが消費され、市内の一般いっぱん消費者も自家消費のため解体かいたい場で肉が買えます。 鯨肉げいにく価格かかく外房そとぼう捕鯨ほげいによって 年度始めに設定せっていされ、 漁期中変動しないことからくじら地域ちいき社会、文化に根 を下ろしていることがわかります。 肉のかなりの部分が加工業者か住民に よって、伝統でんとう食品であるタレ 「くじらじし」に加工・消費されています。生皮 は九州や本州の日本海沿岸えんがん部や北海道で野菜のつけや 「くじらじる」の具材 として、あるいはられて関西地方の「関東だき」というおでんの材料になりま す。 尾羽おははさらしくじらとして消費されています。 肉の販売はんばいは主として白浜しらはま、千 倉、和田の鮮魚せんぎょ商や加工業者(たれ屋)、 行商人 (棒手振ぼてふり〉と一般いっぱんの消費 者に、市場を経由けいゆせず直接ちょくせつ解剖かいぼう場で販売はんばいされます。加工業者は鯨肉げいにくの ものであるたれを作り、鮮魚せんぎょ商と行商の人々は生肉を販売はんばいしますが、入手 した消費者は、主にたれを作り、ほか佃煮つくだに、カツ、ステーキなどにして食べます。

トピックス - クジラのタレ

 房総ぼうそうの名産の珍味ちんみに「クジラのタレ」があります。これは、ツチクジラの生肉をうすく切り、塩をふってみ、3~4時間置いてから、1日ほど天日したものです。江戸時代えどじだい以来、房総ぼうそう沿岸えんがん捕鯨ほげいの漁期は、6月から8月の夏の暑い時期であったため、ツチクジラの生肉を保存ほぞんするための方法として、この「クジラのタレ」が考案されたと考えられます。全国的に見た場合、ツチクジラの捕鯨ほげいは、ほとん安房あわ地域ちいきかぎられ、このタレの製法せいほうはツチクジラの肉にてきしたものだったようです。ツチクジラをらない伊豆いずでは、同じ方法で「イルカのタレ」が作られているということです。