大房岬の戦争遺跡を探る

大房岬は、森と海の魅力を一度に楽しめる自然公園で、絶景スポットもたくさん。
雄大な海蝕景観に恵まれています。

そんな大房岬ですが、首都防衛のために江戸時代から重要な役割を果たしてきました。

大房の戦跡を探る 幕末・日露戦争

【幕末の砲台】

館山市立博物館蔵

現在の第2展望台から第1展望台に向かう途中、西側の林の中に、幕末の頃の砲台跡が、土塁にV字型の切り込みとして残っています。当時の言葉では「台場」と言いました。東京の「お台場」と同じです。
今から150年ほど前、江戸時代の終わり、嘉永6年(1853年)のことです。突如、江戸湾(東京湾)浦賀沖に黒船がやってきました。
以来、幕府は大あわてで、江戸湾の周辺を、江戸防衛のための整備を一層進めていきます。
江戸湾に突き出た大房岬も、首都防衛のための重要な拠点として要塞化されていきました。
この整備にあたったのは、備前岡山藩と言われています。当時の砲台の配備状況を伝える絵図は、館山市立博物館に収蔵されていますが、そこには砲台のほかにも、遠見所や焔硝蔵、武器蔵なども記されています。
大房岬に据えられた大筒(おおづつ)は、青銅製で射程距離は数百メートル。弾は鉄の玉(砲丸)が飛んでいくだけです。つまり爆発はしない、破壊するだけの兵器でした。
そのうえ、江戸湾の幅は20数キロメートルありますから、現実的には役に立つものではありませんでしたし、実際に使われることはありませんでした。

太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず

浦賀沖にあらわれたペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊「黒船」は、4隻の大きな軍艦で、当時の日本人は見たこともない船でした。江戸の人々の驚きと混乱振りを現したのが、この狂歌です。
「上喜撰」というのは高級茶の銘柄のことで、「蒸気船」とかけあわせています。つまり、蒸気船が4隻来航しただけで夜も眠れなくなってしまった様子をあらわしています。

アームストロング砲

当時の日本は、大筒以上の性能を持つ大砲は持っていませんでした。
外国との武力の差を歴然と見せ付けられたのが、長州藩がイギリスやフランスなどと戦った「下関戦争」です。
第一次下関戦争は、1863年、アメリカの商船やフランス・オランダの軍艦に攻撃を仕掛けたのに始まります。すぐさまアメリカ軍艦、フランス軍艦に報復され、自軍の軍艦はもとより陸地の砲台まで破壊されてしまいました。
それでも、長州藩は100門以上の青銅砲を製造し、翌64年には、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊と戦います。
しかし、片や17隻の軍艦にはアームストロング砲を含めて280門以上のアームストロング砲を備えてあります。
このアームストロング砲、砲身が鉄製で、内部に螺旋が切ってあり、射程距離は3キロメートル以上あったそうです。しかも砲弾は火薬が詰め込まれている炸薬入り砲弾です。勝敗は圧倒的でした。言うまでもなく長州藩はこてんぱんにやられました。
ここから、長州藩や薩摩藩の軍備増強が始まりました。

【日本海海戦・勝利への鍵】

南けい船場から東側に見える壁には大小の穴をいくつも見ることができます。これは、今から100年以上前、世界最強とも言われた帝政ロシアとの戦い「日本海海戦」を勝利に導いた鍵の一つです。

艦砲射撃標的跡

明治33年(1900年)、日露戦争を控えて日本海軍は、強敵ロシア艦隊と戦うための訓練に励みました。当時のロシア海軍は世界最大で、太平洋艦隊、バルチック艦隊合わせて51万トン、それに対して日本海軍は半分の26万トンしかありませんでした。
日露戦争は、中国の東北部と朝鮮半島の支配権を巡っての日本とロシアの争いでしたから、戦争となれば海を渡って兵員や物資を運ばなければなりません。海軍の働きが重要な決め手となるのです。兵力が少なくても、何が何でも勝たなければならなかったのです。そのための艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれたのです。
大房岬南側の断崖を標的として、館山湾から発射された艦砲射撃の砲弾跡が2箇所、その名残りをとどめています。南けい船場と第二キャンプ場の下の崖にあります。演習ですから当たっても爆発しないよう信管が抜いてありました。よく当たったようにも見えますが、実ははずれたほうが多かったのです。
軍艦の大砲というのは、なかなか命中しないのです。なにしろ遠い距離から撃つのです。7000から8000メートルぐらいから撃つこともあるのですが、5000メートル以内でないと、命中率が低いのだそうです。小銃は200メートルで、拳銃はずっと短い距離です。その上、海の上のことですから、波で揺れています。せっかく照準を合わせてもその通りに飛ぶとは限らないのです。
また、軍艦は走りながら撃つのです。相手も走っているのです。現代の軍艦は人工頭脳付きのミサイルを積んでいますから、間違いなく当たるでしょう。
その後に起きた日本海海戦での日本海軍の活躍は目覚しく、世界の海戦史上、稀に見る完璧な大勝利となりました。その涙ぐましい訓練の場所がここだったのです。戦後の調査で分かったことは、日本海軍の砲弾の命中率が4パーセントだったのに対し、ロシアのバルチック艦隊はわずか2パーセントに過ぎませんでした。この差が勝敗を決めたのです。
また、砲弾の発射間隔にも大きな開きがあったのです。ここにも訓練と意気込みの差が現れています。
日本海海戦の大勝利は秋山参謀、東郷長官の活躍が多く語られますが、将兵の涙ぐましい努力があったからこそと、あの砲弾跡は語ってくれています。

瀧淵神社の引越し

信仰の地として、大房に建立された竜善院。不動様が祀られていて、多くの人々がお参りにやってきましたが、日露戦争が始まろうとし、もう信仰のお参りどころではありません。海軍の射撃訓練場となり、明治33年(1900年)、仕方なく竜善院は引っ越すこととなり、名前も瀧淵神社と変わりました。
場所は、多田良の消防署富浦分遣所前にあります。その瀧淵神社の境内には、大房岬にあった頃の石造物が多く残っています。
主なものは、大房の地に最初に不動明王の像を安置したという役行者像、竜頭、手洗石、狛犬、灯篭などです。
風化により年代ははっきりしませんが、役行者像は室町時代のものと考えられ、当時は芸術的な面でも優れた石像だったと思われます。

各地域に建つ記念碑

日露戦争は国運を賭しての戦争でした。それだけに戦争に勝った喜びは大きく、その記念碑が各地域に建立されています。
富浦には、旧富浦村が建立した碑が、国道127号線・富浦小学校北側の脇に、旧八束村恤兵会(じゅっぺいかい)が建立した碑が八束小学校の前の道路をへだてた西側に、そして南無谷報国会による碑が豊受神社に建立されています。それらの碑の裏面に刻まれた従軍者の数の多さには驚かされます。

大房の戦跡を探る 太平洋戦争

【要塞化した大房岬】

大房岬は、首都防衛のために江戸時代から重要な役割を果たしてきましたが、特に昭和3年(1928)から帝国陸軍による要塞化工事は、膨大な軍事費と4年の歳月をかけ、さまざまな軍備がされました。
その要塞群は、今でもその跡を残し、現代の私達に戦争という歴史を伝えてくれています。

●魚雷艇基地跡
コンクリ-ト製のレール跡が館山湾に向かってのびています。
●砲台跡
帝国海軍の巡洋艦「鞍馬」か「伊吹」のいずれかの副砲、口径20センチカノン砲が配備されていました。現在は砲台部分をレンガで覆っています。
●発電所施設跡
探照灯には大きな電力が必要になります。ここはそのための発電所でした。50馬力のディーゼルエンジンはドイツ製でした。

【西浜の射的場(射撃訓練場)】

西浜の射的場跡

多田良西浜海岸の西側の山裾に、太平洋戦争時代に射撃訓練場として使われていた、コンクリートの建造物があります。
正確な年代は不明ですが、昭和10年代に、在郷軍人(退役軍人)が、現役復帰するための射撃訓練施設として、年に数回使われていました。
その訓練の様子は、およそ1メートル四方の紙を貼った丸い標的が数個並べられ、発射の度ごとに、その成績を、棒の先につけた白丸、黒丸を振って知らせていました。
小銃は200m手前に砂を盛り上げた土堤から発射していたのは間違いありませんが、拳銃の発射距離は不明です。訓練の行われたその日は、一日中、大きな銃声が西浜一帯にこだましていました。その翌日は、子ども達がやってきて、標的の裏斜面の土を掘っては、銃弾を掘り出すのが楽しみの一つとなっていました。家に帰って、コンロの炭火の上で、銃弾の中の鉛を溶かし、丸い形にひねった針金を差し込み、ペンダントを作ったのです。
一番人気があったのは、数が少ない小型の拳銃の銃弾でした。

小銃弾…細長い拳銃弾…短く、先端が丸く、かわいい姿をしていた

【大房の要塞図面大房の要塞図面】

昭和2年から終戦までの19年間、富浦の海岸一帯は「東京湾要塞地帯」となり、首都の守りの重要地点となりました。
このため、町民は大房付近の漁場には近づくことができず、学童の写生にもいちいち検問許可が必要で、面倒な手続きのうえで、初めて野外写生ができました。
下の図は、戦時中の大房の状況を記した図です。和泉春吉氏、高木角次氏の両氏の証言をもとに作製されたものです。

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